平成5年12月1日
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出羽三山神社御開祖「蜂子皇子」 出羽三山神社「月山・羽黒山・湯殿山」三神合祭殿
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出羽三山縁起
教育研修コンサルティング
【マネジメントセミナー】
所長 田代貢一
羽黒派古修験道 羽黒派古修験道「秋の峰」
先達山伏 貢晴(こうせい)
出羽三山神社 御開祖「蜂子皇子」御歌
くらき世をあきらけくこそ照らすらし
法の切り火の絶えることなく
古来より、全国六十六ヶ国中、東三十三ヶ国の総鎮護として「出羽三山大神」を御鎮座奉る出羽三山神社は、平成五年、「御開山壱千四百年祭」を迎えました。
出羽三山は、修験の御山「羽黒山」、霊魂の鎮まる御山「月山」、浄めの御山「湯殿山」の三山が連なり、皇室を始め、歴代の武将、数多の民衆より、篤く崇敬されて参りました。
出羽三山神社の御由緒を尋ねて見ると、御開祖「蜂子皇子」は人皇三十二代の帝、崇峻天皇の第一皇子で、翌々は皇位を継がれるお方でありました。
然し、百済から伝えられた仏教を国教化しようとする蘇我氏らの崇仏派と、日本古来の神道を護持しようとする排仏敬神派の物部氏との政争により、父帝が蘇我馬子によって弑されるという悲劇に遭い、ご自分の身にも危害が及んで来た事から、従兄弟の聖徳太子の勧めもあって、ご出家されたのでございます。
尚、身に危険が迫って来る事から、奈良の都を逃れ、抖擻行脚に身を窶しながらも京都の丹波の国に辿り着き、そして日本海に舟出します。荒波に揉まれて北へ北へと陸沿いに逃れ、出羽の里、由良の浜の秘境八乙女浦に流れて参りました。
其処には天に聳える巨岩があり、其の下には大波を呑みこむ岩窟が開いています。
其の岩間に、突如として、艶やかな八人の乙女が現れたのでございました。そして得も言えぬ笛や弦を奏でて優雅に舞い踊り、一行を迎える仕種をするではありませんか。
不思議な、この光景に誘われて、蜂子皇子は此の地に上陸したのでございました。
これが由良と羽黒を繋ぐ「八乙女伝説」の由縁也と。
蜂子皇子と同様に、血生臭い政争の都を逃れて流浪の旅に出た母君の大伴小手子皇后(崇峻天皇の后)と、最愛の妹君の錦代皇女、それに御祖父(母君の父)の大伴糠手連の三人は、蜂子皇子の行方も分からぬままに陸路で東北に向かい、福島の小手郷に辿り着き、この地に留まったのでございました。そして人々に養蚕の技術を伝えたと言われています。
現在の福島県川俣町や月館町の地区であり、今でも「小手郷」という地名が残っているそうでございます。
しかし、蜂子皇子に生きて会い見えることもなく、この地にて悲運のご生涯を終えて居ります。錦代皇女は長旅の疲れで早くに亡くなり、頼りの大伴糠手連も病に斃れ、一人になった小手子皇后は世を果敢無んで池に身を投げてしまったという。
真っこと、悲運のご皇族でありました。
現在、母君を祀る「小手姫神社」が福島県伊達市月館町にあり、其の例大祭の折には当地周辺に住まう羽黒山伏が相集いて御神事のご奉仕を勤めているのでございます。
蜂子皇子が、由良の浜の北方に聳える鳥海山と、東方の秀麗な山並の月山を望みますと、其々の山の頂には神々しい紫雲が漂っていました。
何時、何処からとも無く、蜂子皇子の足元に三本足の大烏が飛来して、少し飛んでは舞い下り、また飛び上がっては舞い下りて、何れかに誘うかのような不思議な動作を繰り返すのでございます。「此れは大神に導く霊烏に間違いなかろう」と直感した蜂子皇子は、この大烏の動きに任せて歩みを進めたのでございます。
道行の清水で禊をしながら、霊気が漂う羽黒の山へ誘われるのでございました。
羽黒の藪山を攀じ登って参りますと、直ぐに、大神の霊気を感得することができました。
そして、羽黒山頂の藪下の清水が落ちる「阿久谷」の奥まりに留まったのでございます。
闇夜に、我が魂を鎮めんと、座して幾日も過ごしながら、大神のご示現をお待ち申し上げたのでございます。
そして、遂に、羽黒権現のご示現を拝し、「汝、此処に住まいを定め、身命を惜しまず荒行せよ!それによる験力は無限無量、永遠であろう」と、蜂子皇子にお告げをされたのでございました。
漸く羽黒権現を拝された蜂子皇子は、早速、羽黒山頂に「祠」をご創建奉りました。
時は推古元年、蜂子皇子の御歳は三十一歳。
今から丁度、壱千四百年も前のことでございます。
後、蜂子皇子は感得した験力の呪文を誦するだけで、出羽国司をはじめ、諸人の病悩や苦患を救ったことから、世人からは「能除太子」、「能除仙」と呼ばれ、尊崇されたと今日に広く伝えられているのでございます。
蜂子皇子は次いで月山を開かれ、出羽三山の奥宮の湯殿山を開いたのでございました。
この後も、御開祖、蜂子皇子は奈良の都に再び帰ることもなく、舒明天皇十三年に、御歳七十九歳で羽黒山頂にて薨去されました。
墳墓は出羽三山神社の境内地にあり、現在は宮内庁の管理下にございます。
御身を持って示された御修行は「羽黒派山伏古修験道」として結実し、これに行ずる全国の羽黒山伏によって、壱千四百年後の現在まで連綿と伝えられ、今日の出羽三山繁栄の礎になったのでございます。
蜂子皇子のご遺徳の敬仰を喜び誇りとする「羽黒山伏」。
筆者も、其の末派修験者の一人、「羽黒山伏」でございます。
※当、「出羽三山縁起」は、酒田市「荘内証券梶v本社内に本部事務局を構える「大川周明博士顕彰会」会報17号「秋霜」(平成5年12月1日発行)に、ご掲載を頂戴した拙文でございます。
大川周明博士は、山形県西荒瀬村藤塚(現酒田市藤塚)生れ。東京大学哲学科卒業。東京裁判冒頭で東条英機の頭を叩き、精神病院に収容された民間人唯一のA級戦犯、イスラームに造詣の深い宗教学者、インドなど植民地への視点を堅持した特異なアジア主義者、いくつかのクーデタを計画した国家主義者。文末に「年譜」を掲載。
例年、晩秋に日枝神社山門前に建つ大川周明博士顕彰碑前にて「碑前祭」が執り行われて参りました。その折に内外の著名な方々を招聘してご講義に傾聴する機会がございますが、そのご講義の場の日和山「料亭小幡」では、同時に直会の宴も催され、会員同士の親睦に時の過ぎ行く速さを実感するばかりでございました。
平成5年度の「碑前祭」に於いては、大川周明博士顕彰会の会員の私目が、其のご講義の
ご講師に是非にと、「出羽三山神社 宮司 林 正親」様をお迎えしたいとご提案申し上げ、直接に林 正親宮司様にこの意をお伝え申し上げてご快諾を頂戴した経緯がございました。
林正親宮司様のご講義の内容は、「大川周明博士顕彰会」会報17号「秋霜」に詳述され、其の同頁に当「出羽三山縁起」の拙文をご掲載頂きましたのは望外の喜びでございました。
この会報が発行されると同時に、本部事務局、東京事務所、全国の顕彰会会員、酒田市立図書館内「閲覧情報コーナー」、山形新聞などの機関を経て告知され、多くの方々のご一読の機会を得ましたこと、感慨無量でございます。ありがとうございました。
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亜細亜植民地解放の父「大川周明」
年譜
大川周明《おおかわ しゅうめい》1886.12. 6(明治19)生 1957.12.24(昭和32)没
◇右翼国家主義運動の理論的指導者。
山形県西荒瀬村藤塚(現酒田市藤塚)生れ。
東京大学哲学科卒業。
学生時代に参謀本部のドイツ語の翻訳の下請けをし、軍人の友人を多く作る。
1918(大正7)南満洲鉄道(満鉄)に入社。東亜経済調査局調査課長・局長などを歴任。
この間に満川亀太郎(ミツカワ・カメタロウ)と1919. 8.(大正8)上海にいた北一輝を仲間に入れ、
猶存社(ユウゾンシャ)を組織し活動の中心となるが大川と北が対立して1923(大正12)
解散。
1924(大正13)行地社(コウチシャ)を結成、1925(大正14)皇居内に大学寮を設け日本精神を説
き、1932. 2.(昭和7)行地社を母体に神武会を組織(1935解散)。
即天行地の歌 大川周明 作詞
一 久遠の理想 抱きつつ 混濁の世に われ立てば
義憤に燃えて 血潮湧く ああわが胸に 漲るは
天に則り 王道を 地に行わん 志
二 権門上に おごれども 国を憂うる 誠なし
大地振るえど なおさめず 白紅日わば 貫けど
天を畏るる 心なく ただ苟安わ こととせり
三 財閥富を 誇れども 民をおもうの 情けなし
飢に迫れる 同胞は 国を呪いて ひたすらに
乱をおもえど 顧みず ただ貧焚の 爪をとぐ
四 正義に結ぶ 益良雄の 使命は重し 混沌の
国と民とを 救うべく 雙刃の剣 ひっさげて
われ起たずば 天照らす この日の本を いかにせん
1929(昭和4)満鉄から独立した東亜経済調査局の理事長。
1930(昭和5)結成された陸軍ファシストの秘密結社・桜会(サクラカイ)の将校と接近、大アジ
ア主義を唱え、1931(昭和6)三月事件(宇垣一成陸軍大臣のためらいで未発)・十月事
件(事前に軍部の中枢に漏れ未遂)に関係した。
1932(昭和7)五・一五事件に資金援助し検挙され禁錮9年、1937(昭和12)仮出獄。
1939(昭和14)東亜経済調査局長の最高顧問・法政大学に新設された大陸部部長を兼務。
第二次大戦後、1945.12.12(昭和20)A級戦犯に指名され、巣鴨拘置所に収容。極東
国際軍事裁判の公判中発狂を理由に1948.12.25(昭和23)釈放。
著書『日本精神研究』・『二千六百年史』・『近世欧羅巴植民史』・『回教概論』など。
◎北は尉官級以下の青年将校に、大川は佐官級の中堅将校に関係が強かった。
◎軍事裁判中の発狂には(1)梅毒説、(2)連合軍が理論闘争を避けるために一服盛ったと
する説、(3)法廷を逃れるための芝居説、の3説がある。
◎軍事裁判中に東条英機の後頭部を平手打ちしたことは有名。
◎東京都目黒区下目黒3丁目の目黒不動に大川周明の筆になる「北一輝先生碑」がある。